「資本主義はなぜ自壊したのか」 中谷巌著

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「資本主義はなぜ自壊したのか」 中谷巌著

junのブログ

リーマンショック後、この手の本が数多く出版されましたが、その中でも自称バリバリの市場主義者であった同氏の、「懺悔の書」です。夏休み中、読み返してみました。
純粋な経済学書というよりは、「ブータンやキューバではなぜ人々は貧しくとも心豊かに暮らしているのか?」といった点を合わせて考察しているあたり、独特な感じがしました。

本書の中で、第二次大戦中に発表された、カール・ポランニー著「大転換」のことが記述されているのですが、ここに興味深い記述があります。
曰く、資本主義においては、マーケットで「商品」として取引されるべきでないものまでが取引対象となってしまうため、その結果として人間が本来持っている社会的動物としての側面が破壊されてしまうおそれがある、と。
本来「商品」は、再生産が可能なもの(つまり有限でないもの)に限られるべきであるが、それを逸脱して、①土地、②労働力、③貨幣などの再生産不可能なものまでがマーケットで取引されるようになってしまうのが、資本主義社会の特徴であり、限界であるということです。

①土地
人間は本来土地に定住して生活をしており、地縁をもとに社会生活を営んできました。しかし土地が商品として流通することによって、住むべき土地を持たない人が増加し、土地を耕すことにより収穫を得るという形の労働が不可能になってしまいます。その結果②で述べる「人生の切り売り」による労働をせざるを得ない、いわゆる労働社会層が多数発生することになります。
また、土地が流動化することにより地縁による社会的な関係性も希薄になってしまう点も指摘されています。このあたり、東京などの都市部では近所づきあいがほとんどなくなってしまっていることなどが、当てはまります。

②労働力については、最近は「労働市場」という言葉も使われていることからも分かるとおり、個人の持つ労働力も商品して定着しています。しかし、労働市場における労働は、結局は再生のきかない「人生の切り売り」に他ならず、また雇用者側からは被雇用者の人間性には関係なく「一時間当たり○○の生産性」が確保できればよい、という発想が生じざるを得ないため、被雇用者の人間としての尊厳等を傷つけられることが多くなると。
確かに、製造業などの派遣労働者などの問題を見ていると、このような側面が存在することにも頷かされます。

③貨幣については、何となくピンと来ますね。
本来貨幣は、商品を交換する「手段」であるべきだが、それを越えて貨幣自体が取引されることになったことがいけない、と。特に、過去に金本位制を維持していた時期であればまだしも、金兌換停止後は、貨幣を政府の意思決定により自由に発行できることになってしまったため、歯止めが効かなくなったということです。

最近、投資銀行の業績が復活して、いわゆる「高額報酬」も復活したという話が出てきています。
報酬を高くしなければ優秀な人材は来ない、という論理は分からないでもないですが、そもそもなぜそこまで法外に高額な報酬を必要なのか?貨幣も交換”手段”であったものが”目的”へと転化してしまいましたが、金融機関も利益を上げることが”目的”になってしまったということなのでしょうか。
「足を知る」という言葉がありますが、やはり人間過度に欲をかかず、腹八分目でいける方が本当は幸せな気がしますけどね。

また、少し論点がずれるかもしれませんが、サブプライムの口火も結局デリバティブ取引(CDS)でした。デリバティブというものは、あくまで実需サイドがリスクヘッジのために行うものであり、それを金融機関がリスクテイクする、それ以上のことはし
ない方がいいと思っています。
しかし、「永続的な経済成長」を目指すうえでは、常にフロンティアを求め続ける圧力が生じ、その結果としてデリバティブ本来の役割を越えて(実需を越えて)際限なく商品が作られ続け、金融機関が吸収しきれないリスクは知らず知らずに世界中にばらまき続けられ・・・・ということで、ほとぼりが冷めた頃に第二第三のサブプライムショックは起きるのだろうな、と思ってしまいました。
まあ、私も資本主義経済で生きているので、否定ばかりはできませんが、やはり何時来るかと思うと怖いですね。

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